オタワ条約(対人地雷全面禁止条約)

 オタワ条約(正式名称:「対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約」)は、対人地雷の被害を食い止めるために結ばれた条約です。条約を結ぶ交渉が1996年10月カナダのオタワで始まり1997年12月にオタワで終了したことから、この条約は通称オタワ条約、条約を結ぶ交渉過程はオタワ・プロセスと呼ばれています。現在、162ヵ国がオタワ条約に参加しています(2014年8月)。
 オタワ条約では、使用や生産、移譲など対人地雷に関するあらゆる行為が禁止されています。また、地雷の除去や地雷の被害者の支援を進めることなどが決められています。さらに、地雷被害国でなくても、地雷対策のために資金や技術を支援しなければなりません。このような取り決めはこれまでの軍縮条約には見られないことであり、そのためオタワ条約は人道条約とも言われています。

オタワ条約調印式の様子

 オタワ条約にはそれ以外にも特徴があります。条約までの道のりでNGOが大きな役割を果たしたことです。地雷が埋められている紛争地で活動していたNGOが、1990年代の初めころから対人地雷の非人道性を訴え始め、対人地雷を完全に禁止する条約を結ぶための活動を始めました。このNGOの声に世界の市民や各国政府が動かされ、オタワ条約を結ぶことになったのです。NGOと世界の市民、各国政府のパートナーシップがオタワ条約を実現したと言えるでしょう(その詳しい過程は「市民が作った"オタワ条約"」ページをご覧ください)。
 オタワ条約が結ばれたことにより、世界の地雷を取り巻く状況は改善しつつあります。例えば、1990年代半ばには131の国が地雷を持っていました。しかし、現在地雷を持っている国は50ヵ国です。地雷の使用や製造は少数の国を除きほとんどされていませんし、輸出入は事実上行われていません。また、地雷除去への資金、技術的支援も増えて除去された面積は少しずつ増えています。毎年の犠牲者の数も小さな増減はありつつも少しずつ減っています。もちろん地雷問題の完全な解決にはまだまだ長い道のりがあります。オタワ条約というツールを使って着実に地雷対策を進めることが必要です。
 条約の本文は、こちらをご覧ください。

オタワ条約 批准国(2011年現在)


オタワ条約加盟状況

批准・加盟(162ヵ国)
署名のみ(1ヵ国)
未加盟(34ヵ国)

アメリカ大陸
アメリカ合衆国
アルゼンチン
アンティグア・バーブーダ
ウルグアイ
エクアドル
エルサルバドル
ガイアナ
カナダ
キューバ
グアテマラ
グレナダ
コスタリカ
コロンビア
ジャマイカ
スリナム
セントキッツ・ネビス島
セントビンセントおよびグレナディーン諸島
セントルシア
チリ
ドミニカ共和国
ドミニカ国
トリニダード・トバゴ
ニカラグア
ハイチ
パナマ
バハマ
パラグアイ
バルバドス
ブラジル
ベネズエラ
ベリーズ
ペルー
ボリビア
ホンジュラス
メキシコ

アジア太平洋地域
アフガニスタン
インド
インドネシア
オーストラリア
韓国
カンボジア
北朝鮮
キリバス
クック諸島
サモア
シンガポール
スリランカ
ソロモン諸島
タイ
中国
ツバル
トンガ
ナウル
ニウエ
日本
ニュージーランド
ネパール
パキスタン
バヌアツ
パプアニューギニア
パラオ
バングラデシュ
東ティモール
ビルマ/ミャンマー
フィジー
フィリピン
ブータン
ブルネイ
ベトナム
マーシャル諸島
マレーシア
ミクロネシア
モルジブ
モンゴル
ラオス

ヨーロッパ、コーカサス、中央アジア
アイスランド
アイルランド
アゼルバイジャン
アルバニア
アルメニア
アンドラ
イギリス
イタリア
ウクライナ
ウズベキスタン
エストニア
オーストリア
オランダ
カザフスタン
キプロス
ギリシャ
キルギスタン
グルジア
クロアチア
サンマリノ
スイス
スウェーデン
スペイン
スロバキア
スロベニア
セルビア
タジキスタン
チェコ共和国
デンマーク
ドイツ
トルクメニスタン
トルコ
ノルウェー
バチカン
ハンガリー
フィンランド
フランス
ブルガリア
ベラルーシ
ベルギー
ポーランド
ボスニア・ヘルツェゴビナ
ポルトガル
マケドニア共和国
マルタ
モナコ
モルドバ共和国
モンテネグロ
ラトビア
リトアニア
リヒテンシュタイン
ルーマニア
ルクセンブルグ
ロシア連邦

中東、北アフリカ
アラブ首長国連邦
アルジェリア
イエメン
イスラエル
イラク
イラン
エジプト
オマーン
カタール
クウェート
サウジアラビア
シリア
チュニジア
バーレーン
モロッコ
ヨルダン
リビア
レバノン

サハラ以南のアフリカ
アンゴラ
ウガンダ
エチオピア
エリトリア
ガーナ
カーボベルデ
ガボン
カメルーン
ガンビア
ギニア
ギニアビサウ
ケニア
コートジボワール
コモロ
コンゴ共和国
コンゴ民主共和国
サントメ・プリンシペ
ザンビア
シエラレオネ
ジブチ
ジンバブエ
スーダン
スワジランド
セーシェル
赤道ギニア
セネガル
ソマリア
タンザニア
チャド
中央アフリカ共和国
トーゴ
ナイジェリア
ナミビア
ニジェール
ブルキナファソ
ブルンジ
ベナン
ボツワナ
マダガスカル
マラウイ
マリ
南アフリカ
南スーダン
モーリシャス
モーリタニア
モザンビーク
リベリア
ルワンダ
レソト

■市民が作った「オタワ条約」
 地雷をなくそうと活動していた世界中のNGOが、政府と協力しながら対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)を作りました。政治家でなくても市民が条約作りに参加し、世界を変えることができるのです。では、オタワ条約はどのようにして生まれたのでしょうか?  

■その活動は2人から始まった
 1991年、アメリカのNGOの代表、ボビー・ミューラーさんが、ドイツのNGOで働くトーマス・ゲバウアーさんに1通のFAXを送りました。2人は、カンボジアやエルサルバドルで地雷被害者のために義肢や車椅子を作る仕事をしていました。こうした国々では地雷によって命を落とす人々、手足を失ってしまう人々がたくさんいました。しかもその数は増え続けるばかり。
2人は何とかしなければ、と立ち上がったのでした。


ボビー・ミューラーさん(左)とトーマス・ゲバウアーさん(右)


■1992年10月、NGO「地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)」が生まれた
 2人の呼びかけで、地雷除去や被害者支援をしているアメリカやヨーロッパの6つのNGOが「地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)」を始めました。ICBLの目標は、地雷を全面的に禁止することにありました。しかし、政府関係者やNGOの仲間からさえ夢のような話だと、まともに相手にしてもらえませんでした。誰もが「できるわけがない」と思っていたのです。
 ICBLの仲間が世界中に増えていった1990年代の初め、世界では70を超える国々で1億個以上の対人地雷が埋められたままになっており、毎年2万4千人が被害にあっていると言われていました。単純に計算すると、20分に1人が地雷の犠牲になっていたことになります。
ICBLは、なかでも地雷の被害がもっとも深刻だったカンボジアの状況を訴えるなど、熱心に地雷廃絶運動を始めました。そして、こうした事実を各国で伝えていくうちに、ICBLに参加するNGOが増えていきました。
 1993年にICBLがロンドンで開いた会議には40以上、1994年のジュネーブでは70を超え、1995年のカンボジアでは170以上のNGOが世界中から出席しました。


 1995年3月、ベルギーで世界初の「対人地雷全面禁止法」が成立した
 残念ながら、先進国では地雷問題の深刻さを理解している国は多くありませんでした。そこでICBLは地雷状況を写真や本にまとめ、政治家や政府関係者に理解してもらえるよう努めました。こうした取りくみによって、地雷を禁止しなければならないと考える政治家が増えていきました。
 そして1995年、世界で初めて対人地雷を全面的に禁止する法律が誕生したのです。ICBLが働きかけてから、わずか1年後のことでした。


■ICBLの失望とピーター・バンロッセムの名案
  世界には、対人地雷を含めた兵器を規制する国際条約(CCW)がありました。しかしこの条約は、ハイテク地雷や見つけにくいプラスチック製の地雷を禁止していませんでした。そこでICBLは、すべての地雷を禁止することができる条約に変えるよう、いろいろな国の政府を説得しました。
 ようやく1995年に国際会議が開かれましたが、国によって意見が違い「全面禁止」は実現できませんでした。ICBLのメンバーの間には失望感が広がりました。その時、オランダのピーター・バンロッセムさんが名案を出したのです。「NGOから地雷の全面禁止に積極的な国々に呼びかけて、いっしょに会合を持とう!」と。


ピーター・バンロッセムさん(左)


■スープの晩。NGOと政府の人々の心がつながった
 1996年4月、ICBLと政府代表者による会合がジュネーブで開かれました。
 冷たい雨の降る晩でしたが、手料理のスープが出され、話合いは暖かい雰囲気の中で行われました。全員が「対人地雷は全面的に禁止されるべきだ」と考えていました。さらに、カナダ政府から「秋にオタワでNGOと地雷禁止に賛成する国を招いて国際会議を開こう」という提案が出されたのです。
こうして政府とICBLの人々は、対人地雷を全面的に禁止するという共通の目標に向かって力を合わせることになりました。



 1996年10月、オタワで会議が開かれました。しかし、参加した国々の意見がまとまらず、対人地雷を全面禁止する具体案は出てきませんでした。
 そんな中、最終日のこと、カナダのアクスワージー外務大臣は「来年12月にオタワで対人地雷を全面的に禁止する条約の調印式を開きましょう!」と、会議に出席していた政府やICBLに呼びかけたのです。この発言をきっかけに、条約の交渉が進められることになりました。ICBLも積極的に参加したこの交渉過程が、オタワ・プロセスと呼ばれています。


■NGOも参加し、対人地雷を全面禁止する条約交渉がはじまった


アクスワージー外務大臣(左)と、オタワ・プロセスのロゴ(右)

■反対する国々を説得し、ついにオタワ条約が成立


条約成立を喜ぶ人々
 オタワ条約は「賛成する国だけで条約を作る」という前例のない形で進められました。カナダやオーストリア、南アフリカ、ノルウェーなどが積極的だった一方、アメリカや中国、ロシア、そして日本も地雷は軍事上必要な兵器だと主張し、全面禁止には消極的でした。
 しかし、ICBLや一部の政府は、一般の人々を巻き込む地雷は人道問題だと、反対する国々の説得を続けました。こうした努力が実り、ついに1997年9月、オスロで条約が成立したのです。





■地雷全面禁止の誓い 1997年12月3日

 1992年にICBLが活動を始めてから5年、地雷に苦しむ人々の声はついに世界を動かしました。この日、地雷被害者、ICBL、国際機関の関係者が見守るなか、対人地雷全面禁止条約が調印されました。たとえアメリカ、ロシア、中国などの大国が反対したとしても、地雷廃絶を願う人々の良心は打ち消されないということを証明したのです。


■ICBL ノーベル平和賞受賞!

 オタワ条約調印式から1週間後の1997年12月10日、地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)とコーディネータ(当時)のジョディ・ウィリアムズがノーベル平和賞を受賞しました。
 オタワ条約以前は、軍縮に関する条約は必ずといっていいほど、米露などの大国の影響を受け、実現に至らない事が日常化しており、それがジュネーブ軍縮会議を「骨抜き」状態にしていました。しかし、オタワ条約の成立に向けて、指導力を発揮してきたのは、オーストリアやベルギー、南ア、カナダ等のいわゆる中堅国でした。そして、これらの国々をつなぎ動かしてきたのが、国の枠組みにとらわれないICBLをはじめとするNGOだったのです。
 これは、現場で働くNGOと政府の代表者が「人道問題」という同じ土俵で話をし、共通の目標に向かって協力することが可能であることを実証した貴重なケースであり、その功績がノーベル賞委員会に認められたのです。
 ノーベル平和委員会は、ICBLが政府と協力してオタワ条約の成立に貢献したことについて、「軍縮、平和の達成に向けた国際的な努力の先例となりうる」と称えました。

授賞式で登壇するジョディ・ウィリアムズ(左)

 この出来事に加え、故ダイアナ妃がアンゴラやボスニア・ヘルツェゴビナの地雷原を視察したことも、地雷廃絶運動に弾みをつけ、被害者をはじめとする多くの人々に希望と勇気を与えました。